LOGIN「……レオン様」
返事はない。
銀狼公爵レオン・ヴァルハルトは静かに意識を失っていた。 信じられなかった。ほんの少し前まで氷みたいに冷たい顔で、人を寄せつけない空気を纏っていた男。 それが今は驚くほど無防備だった。「……重い……」
思わず漏れる。
身長差がある。当然だ。 鍛えられた体、支えるだけでも精一杯。「誰か!」
声を上げる。
すぐに扉が勢いよく開いた。 執事長グレイと医師、使用人たちが入ってきた。 そして、銀狼侯爵の様子を見ると全員の顔が強張る。「閣下!」
「運びます!」医師たちが駆け寄る。
ベッドへ移されるレオン。 乱れた銀髪。 閉じられた瞳。 苦しそうな呼吸。 さっきまで見えていた黒い侵食は、ほんの少しだけ薄くなっていた。 それを見た瞬間、医師の一人が息を呑んだ。「……まさか」
グレイも気づいた。
明らかに空気が変わる。 全員何かを知っている。 自分だけが知らない。 その状況が無性に腹立たしかった。「説明してください」
静かな声だった。
けれど、自分でも分かる。怒っている。「……リリア様」
「説明を」グレイが沈黙する。
迷っている。隠すか、話すか。 数秒、重い時間。 やがて、彼は静かに頭を下げた。「……こちらへ」
◇
案内されたのは小さな応接室だった。
温かい茶が用意される。 けれど、飲む気にはなれない。「話してください」
正面には執事長グレイ。
白髪混じりの髪に整った礼服。 完璧な執事。 けれど今はどこか疲れて見えた。「まず……お詫びを」
頭を下げる。
「私どもは、貴女様へ大切なことを隠しておりました」
「レオン様のことですね」 「……はい」静かにグレイが言う。
「閣下は三年前、黒霧領域の討伐に赴かれました」
黒霧領域。
北方、王国で最も危険な場所。 魔物が現れる呪われた土地。子供でも知っている。「その戦いで閣下は呪いを受けました」
「……呪い」 「進行性です」胸が冷える、嫌な予感。
言葉を続けるグレイ。「初期は発熱と痛み」
「……」 「やがて侵食が始まる」黒い痣……。
「身体能力の暴走」
「……」 「感情の欠落」初対面を思い出す。
氷みたいな男。人形みたいだった。 まるで、感情を置いてきたみたいな。「最終的には」
グレイが言葉を止める。
苦しそうに。 静かに。「理性を失います」
息が止まった。
理性を……失う? つまり――「……魔物になるんですか」
沈黙。
それが答えだった。 頭が真っ白になる。 ありえない。英雄、国を守った人。 そんな……。「現在、進行はかなり進んでおります」
「……どのくらい」 「医師の見立てでは」静かな声。
重い。 嫌になるくらい、重い。「あと二年」
言葉が落ちた。静かに残酷に。
二年……たった二年。「……嘘」
「申し訳ありません」違う。謝ってほしいんじゃない。
そうじゃない。「なんで」
喉が苦しい。
「なんで治療を」
「試しました」即答だった。
「王国中の治癒術師、薬師、神官、国外の医師、できることは全て」
全部、全部やった。その上で治らない。
「……じゃあ」
声が掠れる。
嫌な予感。 最初からずっと胸の奥にあった。 嫌な予感。「私との結婚は」
沈黙。
グレイが目を閉じる。 そして、静かに頷いた。「貴女様の力を借りるためです」
空気が止まった。
分かっていた。 少し……分かっていた。 でも、実際に言われると苦しかった。「……そう」
小さく呟く。
予想通り利用された。 それだけ。「王家が古文書を調査し、判明したのです」
グレイの声が遠く感じる。
「浄化の力を持つ者」
「月華の星印」 「そして」少しの沈黙。
そして、ゆっくり告げられる。「深い縁を結ぶことで、浄化は最大限の力を発揮すると」
結婚。
だから王命。 最初から全部決まっていた。「……最低」
思わず漏れた。
「リリア様」
「最低です」怒り。
悲しい。 悔しい。 惨め。 全部が混ざる。「私は」
声が震える。
「道具じゃありません」
静かになる。
誰も何も言わない。 当然だ。 そうだ、利用された。 最初から全部。「……帰ります」
立ち上がる。
帰る。もうこんな場所にいたくない。 扉へ向かうその時。「閣下は」
グレイが言った。
足が止まる。「最後まで反対しておられました」
振り返る。
「……え」
「貴女様を巻き込むなと」
静か。
部屋が静かだった。「他の方法を探せと」
「……」 「自分は構わないと」言葉が出ない。
グレイが続ける。「ですが王命でした」
「……」 「閣下は最後まで」静かに、苦しそうに言う。
「怒っておられました」
誰のために? 考えるまでもない。
頭がぐちゃぐちゃになる。 利用された。それは変わらない。 でも、レオンは知っていた。 嫌だった。巻き込みたくなかった。 だから、最初に言った。『君を愛するつもりはない』
『必要以上に関わるつもりもない』
傷つけるためじゃない。
たぶん、違う。 最初から距離を作ろうとしていた。「……馬鹿」
思わず呟く。
どうして一人で抱え込む。 二年……死ぬまで。 誰にも頼らず、誰にも言わず。 そんなの――「……馬鹿すぎる」
怒りが消えない。
利用された、許せない。 でも、それ以上に胸の奥が苦しい。 どうしてこんな気持ちになる。 まだ会ったばかりなのに。 その時、廊下から足音が近づいてくる。 静かだけど重い。 振り返る。扉の向こうに誰かがいる。 誰かは分かった。理由なんてない。 でも、分かった。 銀狼公爵、レオン・ヴァルハルト。 たった今目を覚ましたのだと。公開裁判の日、王都には朝から冷たい雨が降り続いていた。 強く地面を叩きつけるような雨ではなく、細く静かな雨だった。それでも途切れる気配はなく、石畳を濡らし、王宮の屋根を灰色に染め、中央司法院の前に集まった人々の肩にも容赦なく降り注いでいる。その景色は、まるで王国が長いあいだ隠し続けてきた罪を、今日という一日をかけて洗い流そうとしているようにも見えた。 もっとも、どれほど雨が降ったところで、起きたことそのものを消せるわけではない。 王宮に隣接する中央司法院の前には、夜が明けるより前から大勢の人々が集まっていた。北方で黒霧事件に巻き込まれた者、王宮研究局による実験の犠牲者やその家族、黒鴉会に大切な者を奪われた者、そして王国で本当は何が行われていたのかを自分の目で確かめようとする民衆まで、その顔ぶれはさまざまだった。 誰一人として晴れやかな顔をしていない。 怒りを隠そうともしない者がいれば、何年も泣き続けてきたのだろうと思わせるほど疲れた顔をした者もいる。自分でも何を感じればいいのか分からず、ただ司法院の建物を見上げている者もいた。 馬車の窓越しにその光景を見つめながら、リリアは膝の上で両手を重ね、指先へ無意識に力を込めていた。「……すごい人ですね」「ああ」 隣に座るレオンが短く答えた。 今日は普段の黒い軍服ではなく、銀狼公爵として正式に証言台へ立つための濃紺の礼装を身につけている。胸元にはヴァルハルト公爵家の紋章があり、その下には銀狼と藍色の月を重ねた小さな飾りがつけられていた。 それは、かつて深淵と呼ばれていたノクスとの新しい契約を示す意匠だった。 王国が長く恐れ、銀狼公爵家が代々その身に封じ込めるしかなかった存在を、今のレオンは隠そうとはしていない。それもまた、今日ここで語られるべき歴史の一部なのだろう。「怖いか」 レオンに尋ねられ、リリアは少し考えてから頷いた。「はい。正直に言えば、かなり怖いです」「セドリックの裁判だからか」「それもあります。でも、今日はセドリ
求婚から一週間が過ぎた頃、公爵邸には、これまでとはまったく種類の違う慌ただしさが訪れていた。 黒霧が現れたわけでもなければ、王宮から緊急の命令が届いたわけでもない。もちろん深淵が暴れたわけでも、忘却の海から異変の知らせが届いたわけでもなかった。それでも朝から使用人たちは屋敷中を行き交い、応接室では書類が積み上がり、廊下では仕立て職人や料理人、庭師たちが忙しそうに打ち合わせを続けている。 その原因は、三か月後に予定されているリリアとレオンの婚礼だった。「ですから、招待状の封蝋はヴァルハルト公爵家の銀狼紋で統一すべきです。正式な婚礼である以上、家格を示す意匠は外せません」「銀狼紋だけではリリア様らしさがありません。月白花の意匠も入れてください」「公爵家の正式文書ですので、あまり装飾を増やすのは――」「格式だけで結婚するわけではないでしょう!」 朝から応接室では、グレイとミアが真剣な顔で招待状の意匠について議論していた。 大きなテーブルの上には十種類を超える見本が並べられており、銀狼、月、花、星、夜空といった意匠が、それぞれ少しずつ違う組み合わせで配置されている。その横の机には衣装用の布地や宝石、食器、装花の候補、引き出物の見本、料理の献立まで置かれ、さらに壁際には、いつ誰が用意したのか分からないほど巨大な婚礼準備表まで立てかけられていた。 部屋の入口に立ったリリアは、その光景をしばらく眺めた後、思わず隣のレオンへ顔を向けた。「……戦争の作戦会議みたいですね」「王宮地下へ潜る時より複雑に見える」「私もそう思います」「聞こえておりますよ」 グレイが振り返り、いつも通りの冷静な表情でレオンへ一礼した。「旦那様、本日はまず招待状の意匠を――」「まだ旦那様ではない」 レオンが即座に訂正すると、グレイは一瞬も表情を崩さなかった。「失礼いたしました。未来の旦那様」「それもやめろ」「では、いつも通り閣下とお呼びいたします」
白月塔の最上階に開かれていた光の扉が、少しずつ細くなっていく。 その向こうに最後まで見えていたのは、かつて忘却の海と呼ばれていた場所だった。 誰にも迎えられず、名前を失い、帰る場所さえなくした無数の記憶が沈んでいた黒い海は、もう以前の姿をしていない。水面を覆っていた闇は静かな大地へ変わり始め、その上には月白花によく似た白い花が咲き、深い藍色の夜空には無数の星が浮かんでいた。 そして庭の中央では、小さな姿をしたメモリアが、離れていこうとするリリアたちを見つめている。『リリア』 呼ばれて、リリアは扉をくぐる直前に振り返った。「はい」『また来る?』 その問いには、名前を得たばかりの存在が抱える不安が滲んでいた。 メモリアにとって、忘れられることは存在を失うこととほとんど同じ意味を持っていたのだろう。長い時間、誰にも名前を呼ばれず、帰る場所をなくした記憶たちと共にいたからこそ、誰かが自分のもとを去っていくことを、まだ素直に受け入れきれないのかもしれない。 リリアはそんなメモリアへ向けて、できるだけ安心させるように微笑んだ。「もちろんです。また来ます」『忘れない?』 その言葉に、リリアは一瞬だけ迷った。 以前なら、きっと「忘れない」と答えただろう。 大切なものを守るためには、何一つ失ってはいけないと思っていたし、忘れることそのものが裏切りのように感じられていた。 けれど今は、少し違う。「もしかしたら、忘れることはあるかもしれません」 メモリアの表情がたちまち曇ったため、リリアは慌てずに続きを口にした。「でも、もし忘れてしまったら、その時はまた思い出しに来ます。忘れないことだけが大切なんじゃなくて、忘れたあとでもう一度見つけることの方が大切な時もあるって、私たちはここで教えてもらいましたから」 メモリアはしばらく何も言わなかった。 やがて、その小さな顔にほんの少しだけ安堵が浮かぶ。『分かった。待っている』 そ
黒い波は、もはや海というより巨大な壁だった。 リリアとレオンの前で空を覆い尽くすほど高く盛り上がったその波の中には、数え切れないほどの声と記憶が混ざり合っている。誰にも名前を呼ばれず、思い出されることもなく、帰る場所を失ったまま長い時間を漂い続けてきたものたちが、怒りと悲しみを抱えて二人へ押し寄せていた。「リリア、本当に戦わないのか」 レオンは剣を構えたまま、視線だけを彼女へ向けた。刃の上には銀色と藍色の光が重なり、迫り来る黒い海を迎え撃てるだけの力が満ちている。「はい。少なくとも、最初から斬るつもりはありません」 答えながらも、リリアの身体は僅かに震えていた。 目の前の光景だけを見れば、逃げ出したいと思うのが当然だった。波に呑まれれば自分がどうなるのか分からず、月華の力でさえ耐えられる保証はない。 それでも、耳に届いてくるものを無視することができなかった。『お母さん』『帰りたい』『寒い』『痛い』『僕の名前を、忘れないで』 それは敵が発する声ではなかった。 ずっと誰かに聞いてほしかった人たちの声だった。「この人たちは、私たちを傷つけたいだけじゃないんです」 リリアは胸元へ手を当てた。「ずっと誰かに聞いてほしかったんだと思います。自分がいたことを、知ってほしかったんです」「それでも、お前を呑み込もうとしていることは変わらない」「分かっています」「なら――」「だからこそ、もう一人で全部受け取ろうとはしません」 リリアはレオンの手を取った。 その言葉に、レオンの瞳が僅かに揺れる。「話は聞きます。でも、全部を私の中へ入れるんじゃなくて、この人たちがそれぞれの記憶のままでいられる場所を作ります」「そんなことができるのか」「分かりません。でも、やってみます」 以前の自分なら、きっと「できます」と言い切っていただろう。 誰かを救うた
最初に感じたのは、骨の奥まで染み込んでくるような冷たさだった。 忘却の海へ落ちたはずなのに、服も髪も濡れてはいない。それでも身体の芯から熱だけを奪われていくような感覚があり、リリアは重い瞼をゆっくりと開いた。 目の前には、どこまでも黒い海が広がっていた。 空と水平線の境界すら分からず、上下も遠近も闇の中へ溶けている。その中で唯一はっきりと見えるのは、海面に浮かぶ無数の淡い光だった。 星のようにも見えるそれらは、よく目を凝らせば一つずつ違う揺らぎ方をしている。 誰かの名前。 誰かの声。 誰かが確かに生きていたという証。 そんなものが光となり、黒い波に揺られながら、少しずつ海の底へ沈んでいく。「……レオン様」 リリアは身体を起こしながら呼びかけた。 返事はない。 胸の奥が急速に冷えていく。「レオン様!」 今度はもっと大きな声で呼んだものの、返ってくるのは遠い波音だけだった。 第一王子も、ノクスもいない。 忘却の海へ呑み込まれた瞬間、全員が別々の場所へ引き離されたのだろう。 そして、最後に見たレオンの顔が脳裏へ蘇る。『誰だ』 たった一言だった。 けれど、その言葉は胸の奥へ深く刺さったまま抜けない。 忘却の力によって記憶を奪われただけだということは分かっている。レオンが自分の意思でリリアを忘れたわけではなく、まして彼の想いが嘘だったわけでもない。 それでも怖かった。 今までは、自分が忘れる側だった。 記憶を失いかけるたびに、レオンが名前を呼び、自分が誰なのかを教えてくれた。 戻ってこいと手を伸ばしてくれた。 けれど今度は、レオンが忘れた。 ならば、自分がしなければならないことは一つしかない。「今度は、私が呼ぶ番ですね」 リリアは自分の胸元へ手を当て、そう呟いた。 その
「次の敵は、私たちの記憶を消しに来る」 王宮西棟の病室でセドリックがそう告げたのは、まだ夜が明ける前のことだった。 第一王子から緊急の知らせを受け、公爵邸にいたリリアとレオンが急ぎ王宮へ戻った頃には、東の空がようやく白み始めていたが、王都に広がっている異変は夜明けとは正反対の不気味さを帯びていた。 馬車が王宮へ向かう大通りへ差しかかった時、リリアは窓の外から聞こえてきた声に思わず顔を上げた。「……すまないが、名前をもう一度教えてくれないか」 道端の店先で、年配の男性が妻らしい女性を見つめていた。 彼はひどく困惑した表情を浮かべている。「顔は分かるんだ。大切な人だってことも分かっている。それなのに、名前だけがどうしても出てこない」 男性の唇が震えた。 女性は泣きそうな顔になりながらも、懸命に笑ってみせた。「マリアよ」「……そうだ、マリア」 名前を口にした瞬間、男性の目から涙が落ちた。「忘れたら、また言ってくれるか」「何度でも言うわ」「ああ」「何度忘れても、何度でも」 馬車はその二人の前をゆっくり通り過ぎていった。 リリアは胸元へ手を当てた。「もう始まっていますね」「ああ」 隣に座るレオンの声も硬い。 今朝だけで、同じような報告がすでに何件も上がっていた。 人の名前だけを忘れた者。 昨日の出来事だけが抜け落ちた者。 逆に、自分ではない誰かの記憶を夢として見た者。 まだ王都全域を覆うほど大規模ではない。 それでも、忘却の海が確実にこちら側の世界へ影響を及ぼし始めている。 レオンの足元で影が揺れ、小さな夜色の姿をしたノクスが顔を出した。『まだ浅い』「何がですか」『忘却との接続だ』 ノクスは黄金色の瞳で窓の外を見







